へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

音楽という営み

今日は午前中にバイトをし、午後は疲れてしまってあまり明日の準備に集中できなかった。なんやかんやで今はもう夜になってしまった。本当に体が疲れているのでもうすでに眠い。日本に帰ったら絶対に毎日予定を入れるような馬鹿な真似はやめようと思う。何日かはしっかり寝てしっかり休まないと体がもたない。

 

シャワーを浴びながら今日も例のごとく尾崎豊の歌を練習していたのだが(お世辞にも上手いとは言えないと思う)、音楽というのはつくづく不思議な芸術活動だと思う。その理由は、大抵の人は音楽を自分で作り出すことが出来ないことに由来する。一般的な音楽の関わり方というのは、誰かが作った曲の誰かの歌いや演奏の仕方を真似てみるというやり方である。

 

これは、文学とか絵とかにはあまり見られない形だと思う。確かに、書道は模倣だし、練習で誰かの絵を真似ることはあるかもしれない。けれど、小説を書いてみようとか、文章を書いてみようと思って誰かの書いた文をそっくりそのまま写すことを文学活動だという人はいないだろうし、誰だって自分の中にある絵を描くことを本番だと思って絵と向き合っているはずである。

 

しかし、こと音楽においては誰かを模倣することを以って完成というか、ある種の達成になるのである。これが、クラシックの世界なら一定のルールの中で自分の解釈を少し付け加えたりして微妙に自分を出したり、ポップスなら結構自由に自分なりの歌い方で歌ったりすることで「自分なり」の音楽が出来るから完全に模倣とは言えないけれど。でも、お風呂で尾崎を練習していて思うのはやはり尾崎の曲は尾崎なのである。音源と一緒に歌っているときはどうしても尾崎の声に似せざるを得ないし、尾崎の声なしで歌ってもやはり自分の声のどこかしらに尾崎が垣間見えるものである。RADWIMPSを歌っていたら野田洋次郎がどこかにいるわけである。

 

まあつまり何が言いたいのかというと、自分で作曲でもしない限りここまで他者の存在に縛られる芸術というのは面白いなあということである。逆に言えば、自分で曲を作らない限り本当の意味で音楽を楽しんでいるとは言えないのではないかとさえ思う。誰かの作った曲を演奏している限り、我々は「本家」と向き合わざるを得ないので、自分自身の音楽というのは一生出来ないんじゃないかと思う。

 

もしかしたら自分が作曲を出来るようになりたいのも根底にこういう考え方があったからかもしれない。まあそもそも、音楽は他の芸術と違って基本的に誰かと一緒に作ることが多いからその時点で自分の音楽を100%やるというのは無理な話かもしれないけれど。