【エッセイ】負けてもいいと思う話
今日も何だか、散文的なモノをどうぞ。
自分は、天邪鬼な人間なので周りの人とは逆の反応をする。例えば最近は、周囲の人々がどこか落ち込んでいるのですごく元気が湧いている。周りの人が辛そうであればあるほどその分頑張ろうと思うし、周りの人が頑張れば頑張るほど自分は特に頑張る必要はないと思う。自分はそんな人間である。
僕たち人間は、強くあろうとするし強くありたいと思っている。社会がこういうよくわかんないことになって、日常はどこかへ霧散してしまって、閉塞感の拭えない日々が続くとき、心の中に立ち込める暗雲に対して全力で抵抗しようとする。
自分は特に負けず嫌いだから、こういう時は絶対に負けない。打ちひしがれたり元気が無くなったりして憂鬱な日々を過ごすことはあり得ない。毎日何かを努力して一歩でも前進するし、停滞することはあり得ない。でも、全ての人がそういう風に強く生きられるわけじゃない。母はため息ばかりついているし懇意にしている女の子たちもどこか元気がない。妹はドラマばっかり見て腐った生活をしている。
周囲がこういう雰囲気になって思った。もういっそ負けを認めてしまっていいのではないかと。人と会えないのは辛いし、楽しみも頑張りがいもない中では頑張れない。今はとにかく打ちひしがれてとことん沈み込んで、なんでもないことで涙を流し、心は不安定を極める。そういう時期があってもいいんじゃないだろうか。
自分はとにかく負けることが出来ない。これはプラスにもマイナスにも働く。どんな時でも負けられないので負けなきゃいけないときも負けられない。どんなに自分の肉体と精神が悲鳴を上げても、脳みその指令で自分の心身を酷使することが出来てしまう。「痛みを感じない人間は最強なのか」という問いの答えは絶対に「最強ではない」である。肉体にも精神にも絶対に限界があるのでいつか突然自分の体が壊れるときがくる。
だから、自分の体がギブアップする前に自分で負けてしまえばいい。無理なんてすることない。死ぬ気でやる必要なんてない。負けてもいいから長く生きる気でやった方がいい。
一度負けを認め、とことん落ち込み、暫く死んでいると、自然とやる気がわいてくる時期がやってくる。その復活まで、正直どのくらいの期間がかかるか分からない。自分は最近の死亡から5年かかって復活した。それまで負けを認められなかった代償だった。ある意味妥当な死亡期間だったと思う。
本当に絶命しない限りは死んでもいい。負けてもいい。いつか絶対生き返れる。人間の底力は思ったよりも強い。