へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

僕が僕であるために

晩御飯のあと、膨れたおなかを休ませながらチャイコフスキー交響曲第六番の第一楽章を聞く。木管楽器が掛け合い、複雑な螺旋階段のような上昇模様を呈するところで僕は一番幸せになれる。最近の一番吹いてて楽しい旋律である。曲はもう闘いのところまで来てしまった。アメリカにいるけれど、やはりロシアの曲たちは素晴らしい。

 

なんでこんなことを考え始めたのかはわからないが、日本における全ての問題の根幹のようなものについて思いを巡らせていた。その問題とは、人間みんなが自分の意思を持っていない、自分の心の声を聴くことが出来ていないということである。日本で生きるほとんどの人たちは我慢大会をしながら日々生きながらえているようなものだ。

 

われわれ日本人は小学校に入学した時から常に集団の中にいる自分というものを意識せざるを得なかった。というよりも、いかに規律に服従し、権力に従うかによって評価されてきたため、自分の頭で考えられるように育てられて来なかった。僕が通っていた高校は一般に偏差値が高いと言われる人々が入学し、校風は自由で自主自立を重んじ、次世代のリーダーを育てると銘打っていた。それでも、高校生だった我々に求められていた、優等生とされる生徒像は、先生の言うことに良く従い、先生の勧める、もしくは先生が合格してほしいと願うような大学に受かる生徒だったと思う。

 

リーダーとは、集団の前に立ち、どちらへ進むかを示し続ける存在だと思うが、僕のいた高校では自分の進むべき道でさえも何となくでしか決められない人が多かったと思う。みんなが口々に言っていたのは、将来の幅が狭まらないような大学に行きたいということ。好きなことが見つかったときにその道に進めるように選択肢を残したいらしい。

 

例えてみると、大きな木の中でなるべくたくさんの枝がその先につながっているような枝を目指しているのだ。僕は違う。言い切れる。この職業に就きたくて、その葉っぱに辿り着きたくて、進んできた。みんなとは見ているところが違う。良くも悪くもわき目を振らずに走ってきた。研修が進んだ今では、世の中にはこの仕事だけじゃなくて色んな種類の職人がいることが分かったし、必ずしも僕の目指している道だけがこの世界の道じゃないことも分かった。

 

ここで僕が言えることは、何が自分を幸せにしてくれるのかを、僕は自分で見つけることが出来たということだ。日本の人々は上手に思考停止できるように育てられていると思う。ほんの一握りの、方向を決められる人の命令に従えるように、一度決まったその方向に全速力で進める組織の一員となるために育てられてきた。それが幸せになるように育てられてきた。やり方はいじめと一緒だ。集団に順応しない個体を晒し上げ、見世物にすることによって集団に順応することを叩きこむ。みんなと一緒が一番なのだ。

 

でも、最近の日本ではそれが限界を迎えているように思う。一億総我慢社会は悲鳴を上げている。みんなで不毛な我慢をし、根性論で泥臭く、残業は美徳であり、組織のために身を粉にして死ぬ。今はそういう時代じゃない。テクノロジーは日進月歩で発展していくし、すべてのものがスピードアップしていて、何よりも効率が求められる。

 

人間個人個人の観点からみると、一番効率のいいことというのは、好きなことをやることだと思う。なぜなら、人は好きなことをやっているとき、集中力が最大化され、それに纏わる記憶も強烈に脳みそに記録される。あたりまえだけど。でも、残念なことにほとんどの日本人は自分の本当に好きなことを仕事に出来るとは思っていない。というか、自分の好きなことをやろうという概念がほとんどないのかもしれない。

 

確かに、誰かに与えられた価値観に従うのは簡単なことだ。自分で考えなくても何をすれば幸せになるのかがわかるし、それさえしていれば幸せなんだと思えるだろう。宗教と同じだ。でも今の日本は、人から与えられた価値観では幸せになれないということを立派に証明してる。日本人は自分たちで作り上げた社会の窮屈さに耐えられなくなってきている。

 

結局は、みんなもっと好き勝手生きようよ、という話です。文章を上手に書くのって難しいね。これを書いてるうちに上達出来たらいいな。たくさん伝えたいことはあるけれど、実際に伝えられることはそうたくさんはなくて、そのほんのちょっとずつで人間関係って変わっていくのかなぁと思いました。ありがとうございました。