へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

厚さ

ここ二週間くらいは気持ちの良い快晴が続いているので芝生が育ってしまったのか、窓の外の中にはでは芝刈り機がけたたましくいやな音を発生していて窓なんて開けられたもんじゃない。まあ外の空気はそれ以上に気持ちいいので開けているんだけど。今日もさわやかな濃い青空が窓から覗いている。

 

昨日は次のフライトの試験の前の最後の訓練だったけど、それはそれは綺麗な景色を見ることが出来た。東の空には地平線近くの紫の空に大きなお月様が浮かんでいて、未だ満月ではなかったけどそれはそれは幻想的だった。一方で西の空には燃え盛る太陽が今にも沈もうとしていて、大きな太陽が地平線に吸い込まれていく様子を空から眺めることが出来た。やっぱり綺麗な景色が見れるのが飛ぶことの楽しさの一つだ。

 

さてさて、最近インスタを見ていると中高の同窓のたくさんの友人達が誰に向けるでもなくその恋人との幸せな日々を報告しているわけだけど、まあアメリカで一人寂しく飛行機を飛ばしている身からすればあまりに頻繁で節操のないそうに思われてしまうその投稿の数々には閉口させられてしまうわけだ。シンプルにうらやましいっていうのはあるけどね。でもそんな風に愛を宣伝する彼らに足しては何と薄っぺらい愛情と思ってしまう。

 

まあそれが発端というわけではないんだけどそういう大学生のある意味チャラい、他方では至極大学生として真っ当な営みを日本から離れて眺めていると、ああこんな風にはなりたくないと感じる自分としては自分自身の価値観というものについて考えざるを得ないわけだ。同世代における流行というか、モードを目の当たりにしてそれに否定を示す自分の心に対してじゃあ何が欲しいんだいと問わなければ幸せはつかめない。

 

さっきから1文がめっちゃ長くなってるのは許してください。

 

夏休みの頃からインスタを監視するにあたって考えていたことだけど、やっぱり大学生という身分においてお金のかかる旅行を楽しんだり、授業を破棄してまで夜通し遊んだり、自分の時間を誰かに売ることによってなけなしのお金を得たりすることは果たしてそれほどに格好のいいことなんだろうか。手前の1年生の頃を振り返りなさいと言われればそれは確かに自分にも思い当たる節がないわけではないよ。

 

留学要件を満たした後は体を擦り切らすようにバイトに明け暮れ、平日は授業こそ欠席はしなかったものの毎晩のように飲み歩き、授業中に寝ていたこともしばしば。それだけに留まらずオケもしっかり休まずやっていたし大学生という身の程からはちょっと程遠い贅沢を享受していたように内省される。今はこんな風に考えているけど日本に帰ればきらきらした友人たちに流されて一般的な大学生の像に染まっていくのかもしれないけれど。

 

まあ前置きが長くなりすぎてもう今日はこの辺で切り上げたいところだけど、やっぱり本質的には自分が何を薄っぺらい行為と考えて何を真の通った厚みのある行為だと考えるのかだろう。

 

いまこのちっちゃい脳みそで考えられる一つの基準としては、なりたい自分や夢をもってそれに近づいているのか否かという点であろう。逆に言えば、その人が将来への固い意志をもって大学生活を謳歌し、その過程において生じる派手な生活をインスタに上げているだけなのだとしたら、僕は素直にただただ僕が持たざるものであるという事実に憤慨し嫉妬しているだけであると認めざるを得ないだろう。

 

諸々の議論とはちょっと離れて、一般的な美学として自分の努力は誇示しないほうがいいし、慎ましい性格の方が大勢の人から美しく見てもらえるだろうっていうのはあるけれど。

 

とやかく言ってる自分も諸々のフライトの動画や審査に受かるたびに投稿しないと気が済まないという点において、一人では頑張れない弱者だし、承認欲求の塊と言われても反論できないことはわかっているんだけど。

 

以上のあまり厚みのない無駄な議論から結論付けられることは、とにかく僕の価値観によれば、あまり努力を顕示せずに慎ましく努力を重ね、浪費ではなく自己への投資に金銭を回すことによって、自分のなりたい自分になることが出来るはずであり、アメリカ日本を問わず常にそういった姿勢で人生を生きるべきだということなんだろう。

 

いつもより倍くらいも書いちゃったけど僕の価値観が反省できたところで今日も読書に勤しもうと思います。もうすぐ公開する約束の50記事目が近づいてきてるけどまだどんな感じにしようか全然まとまってません。SNSと違ってアカウント同士のオープンさじゃないから困ってるんだよね。それではまた今度。