へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

禁欲主義の終了と人生の本質

今日はアウトプットの日なので調子に乗ってもう一本記事を書いてみようと思う。ちなみに今はもう夜で、日課マリオカートを終えて帰ってきたところである。マリオカート任天堂スイッチのソフトであるにもかかわらず、最大で4人までしかプレー出来ないのが玉に瑕である。確かに8人でやろうとすると一人分の画面が小さくなってしまうという任天堂さんの主張もわかるが、スマブラが8人でプレイできる以上、マリカーもプレイ人数を増やす努力をしてほしいものである。

 

中学高校時代から今にかけて大きく自分の考え方が変わったと思うのが禁欲に対する考え方である。どういう背景かはわからないが中学高校時代の自分はあまりにも性的なるものを神聖視しており、子作りは尊いものであるからして、子種を無駄に放出する自慰はよからぬことであるという謎の縛りみたいな意識が高校時代くらいまで確かに自分の中にあったと思う。

 

実際、人生はいかに禁欲できるかにかかっていると思っていた。一人の人間として大成するためにはあらゆる分野において自分をコントロールすることが必要で、自分の欲に打ち勝ち、あるべき姿に近づく努力をすることが肝要だと分かっていた。その最たる例が禁欲で、どうしようもない思春期の性欲を抑制しきってこそ、真に自分をコントロールできる強者になれるのだというある種の禁欲に対する信仰心のようなものを抱いていたことは否定できない。

 

実際、そういった少年~青年時代の自分は禁欲をすればうまく行っていた気がする。忘れもしないのが高校受験前のオナ禁で、10月の半ばから3月の半ばにかけて、約5か月にも及ぶ禁欲を成し遂げたのをよく覚えている。しかし、この経験がなんでもかんでも禁欲と結びつけて考えてしまう間違った人生の因果関係を見出すようになってしまった原因だと思う。というのも、高校時代に入ってからあまり禁欲それ自体が人生を向上させてくれるということはなく、そもそも年齢が上がるにつれて禁欲は難易度をどんどん増していったように思う。

 

そこで結局今の考えとしては、禁欲そのものに価値や効用があるわけではなく、禁欲をしているという状態の自分が勉学やその他の活動に精力的に取り組めていたからこそ輝けていたということである。つまり、禁欲はある種の道具なのである。禁欲状態を上手く使えば目の前のことに真摯にコツコツと取り組めるようになるきっかけをつかめるというだけで、禁欲をしているだけでは何の意味もないしその他の努力を同時進行で進めていかなければ人間として成長は出来ないということだ。

 

今となっては自分の性欲はあるがままの状態にしている。(笑)今は朝起きてすぐにベッドを整えておくことや、毎晩寝る前のちょっとした学習と瞑想をルーティンにすることによってある程度戦う状態の自分に出来ているのでそれでいいのだ。

 

あんまり猿のようにいたしまくってもいけないし、かといってオナ禁すれば全部上手くいくみたいな考え方で修行僧のように禁欲しても仕方ないということである。大事なのはきちんと世の中の因果関係を見極めて自分が力を注がないといけない部分でしっかり努力することである。