へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

絵で考える

今日は一日中雨。昨晩のうちから今日の仕事はキャンセルという連絡が入って朝起きる必要もなく、起きたのはいいものの近ごろの疲れがたまっていたのか本当にしんどかったので一週間に一度だけ昼寝をしてよい権利を使って安眠に伏した。やっぱり昼寝というのは格別で、まずやってはいけないことをしているという背徳感がまず楽しい。日光、というよりかは雲のフィルターを通した空の明るさのことだけど、を浴びながら温かいお布団に包まれてそっと目を閉じる瞬間は世の中の静的な楽しみの中で一番かもしれない。

 

昼寝から復活してからは最近読んでいた本を読み切ることにしてがーッと読んでみた。kindleamazon prime加入者なら誰でも無料で読めるprime readingにある本で佐宗邦威さんという方が書いた「直感と理論をつなぐ思考法」という本という本である。簡単に言うと、頭の中にある妄想とかイメージを大事にして他人の需要に応じて生きるんじゃなくて自分の中にあるものを表現していけたらいいよね~的な本である。今やほとんどの人はアマゾンプライムに加入していると思うのでkindleのアプリをダウンロードして読んでみてほしい。

 

で、そこに書いてあったことの一つで興味深かったのが物事を画像として、イメージとして自分の中に落とし込むことが出来れば複雑なことを簡潔な形にグレードダウンせずに理解できるということだ。例えば理解するのが難解な授業なんかも、自分でノートのイラストを描いて画として解釈すれば言語化というプロセスを経ないために複雑さを尊重したまま自分の中にインプット出来る。

 

これに似ていると思ったのが僕の英語の理解の仕方である。中学生の頃から英語は得意科目の一つで特に長文なんかは読むのが早かったので好きだったのだが、そのころから英語はもはや日本語に和訳しなくても理解出来るようになっていたと思う。というより、一人の文章の読者として、自分のもしくは解答例の和訳フィルターによって筆者が伝えたいニュアンスやテーマが少しでもブレてしまうのが厭だった。「あなたのことを愛しています」と、「I love you」は全く別の意味を持っていて、決して同義ではないといえばわかっていただけるだろうか。その言語が歩んできた歴史を経て今の言語があるわけで、その背景にあったものを無視して辞書的な変換を通して理解するというのはやはり良くないことだと思っていた。

 

映画やなんかの吹き替え版が嫌いな人も同じ理由だと思う。英語(又は他の外国語)に包含されている複雑さを取っ払ってしまったら芸術を鑑賞している意味がなくなるといっても過言ではないと思う。

 

というわけで、折角デジタルで画像を自由に操れるような時代に生きているのだから、これからはインプットとアウトプットの両方に画像を使って、言語への依存度を下げていきたい。