へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

山あり谷ありの中で

今日は午後からようやく晴れてきて、一週間ぶりくらいに地上から青空を見た気がする。さらにこっちでは今日が満月の日なのでもし月が出るくらいの時間に起きていたら快晴の深い青の中で金色に光る月をゆっくり眺めてみたいと思う。明日の朝がとても早いので月が高く上るころまで起きてられるかわからないけど。

 

人生に山があったり谷があったりするのは当たり前である。小学生ですらそのことは良く理解していると思う。自分も小学生の頃はめざましテレビの星占いを毎日チェックして一喜一憂したものである。その中でも、日々の振動からより大きな視点に立って、数年単位くらいでの山谷もあると思う。総じてこの時期は良かった、この時期は悪かったと振り返ることを誰しもがしているかもしれない。

 

今日議題にしたいのはこの縦軸を僕は何を持って測っているのかということである。これはアメリカに渡って来たあたりからずっと考えているテーマなんだけど、要するに自分にとって幸せとは何ぞやということである。昨日はちょっと落ち込んでいたので寝る前にこう思った。「こんなに気持ちの良いベッドで寝られるだけ、私は幸せな人間である」と。これは相対的な幸せである。比較対象として世界にごく少数ではあるが存在している貧困にあえぐ人々や、激務により夜も眠れない人々がいるわけだが、果たして本当に私は幸せなのだろうか。

 

他にはこんな考え方がある。「私は毎日ご飯を食べ、何不自由なく日々を暮らしているのだから、私は幸せである。」これは、物質的幸せである。食べ物に困らない、生活をしていくうえで必要不可欠なものに困らない、不自由=負を持ち合わせていないので幸せ=正であるという考え方である。その事実は揺るぎないが、果たして本当に私は幸せなのだろうか。

 

こういう調子で、今自分が幸せだと考えられる理由を探せば、きっと無限に見つかるように思う。他人と比べるという卑屈なことをしなくても、きっと無限に見つかるであろう。それなのに、何故私は辛くなってしまうのだろうか。客観的に見れば明らかに幸せなはずなのである。誰の価値観かはわからないけど、「一般的に」考えれば僕がしくぁせであることは明確なのだ。幸せな毎日を送っているはずなのに、辛い気持ちに囚われてしまうのはやはり自分が幸せではないから、特に「私にとっての幸せ」の状態にないからなのではないだろうか。

 

でもその「私にとっての幸せ」が明確な概念として定義できるほど捜索が進んでいないのが現状で、だからこそ辛いのかもしれないけれど…。とにかく、自分の軸をしっかり見つけて、その軸をブレさせない毎日を送ることが幸せにつながるんだと思う。今の自分にとっての軸は「毎日ちょっとずつ前進していくこと」なので引き続きちょっとずつ成長していきたいと思う。磨こう、自分。