へなちょこ人間の独白

廉司という名前でtwitterを始めました。大学生のブログです。普段考えていることなどを書いています。

本質情報とネットの効用

今週は先週の土日に引き続いて連日の仕事で、youtubeを見る時間がないくらい忙しかった。明日からはまた少しスケジュールが緩くなるので休めるが、今まで忙しくて出来ていなかった仕事の振り返りや、知識面での勉強をゆっくりやろうと思う。やっぱりバイトが入るとどうしても激務なので体力的にきつくなり、中々勉強するだけの体力を余せないので明日からは少し落ち着こうと思う。

 

さて、自分は小学校低学年くらいからパソコンに触れていた世代である。パソコンに触れていたといっても、当時は只々家族の誰かが「お気に入り」の「ゲーム」の所にブックマークしてくれていたサイトでパソコンゲームをするだけだったが。それが、中学生くらいになるとメールやSNSで使うようになり、高校では色々とアカデミックな調べもの等もするようになり、大学に入ってからは大学のシステムとネットは切っても切れないのでがっつりネットを使っているわけである。

 

ネットでいろいろな情報を集めるようになって、実感しているのがやっぱりネットで本質的な情報は得られないということである。特にただのウェブサイトに書いてある記事は「ネットで調べたことを書いている」ことが多く、同じくネットで調べようとしている我々からすると余り身になる情報が見つからなかったりするものである。

 

これは別にアフィリエイトとか、ネットビジネスを批判したいわけではない事に留意していただきたい。僕も実際、このブログが大きくなっていつかはアドセンスで幾らか収入が得られたらいいな、なんて思っているし。僕が言いたいのは、これからの時代において「人間が各記事にどんな意味があるのか」を考えた方が良いんじゃないかということである。

 

本当にたくさんの情報が世の中に出回り、それを容易く手に入れらる世の中において、情報の質を見極める目を養わなければならないのは勿論のこととして、発信する側としてどんな情報を発信したらいいのかというのは、一つブログを書いたりする人にとっては考えておくべき議題なのではないだろうか。

 

思うに、もはや「客観的な情報のみ」を発信することはほとんど意味が無いと思っている。これからの時代において、AIが発達したりSiriが進化したりすれば、ちょっと知りたいことについてはわざわざ自分でgoogle 検索をして個々のウェブサイトを訪れなくてもSiriがある程度の情報を見やすく取ってきてくれるようになると思う。そうなった時にSiriはきっと信頼できるソース(例えば学術論文や公的文書など)から情報を取ってくるだろうからネットで調べたことをまとめただけの記事というのはあまり意味をなさなくなると思う。

 

逆に、我々が発信していくべきなのは「がっつり主観的な考え方」の方なのではないだろうか。客観的な情報はもう機会が勝手に収集したり解析したりしてくれるので、もう人間が情報を収集してまとめるということをする必要はない。それよりも我々個人個人がどんな人生を生き、何に価値を感じ、どんな感情を持ちながら生きていくのか、そういったことを発信して同じ価値観を持つ人を引き寄せることが大事になってくると思う。

 

大学で書くレポートでも、情報を集めて深く理解し、「そこから何を感じたのか、自分の視点から何を読み取れるのか」を問われているわけで、要するに自分の主観を伴わない発信というのはこれからの時代でどんどん無くなってくるのではないかと思う。

 

ちょっとまとまらない文章になっちゃったけど、今度このネットにまつわる僕の描く未来像について整理して書いてみようと思う。今日の所はこの辺で。また明日。